明治二十二年、静岡市内両替町で創業
“静岡の特産”に


 かまぼこの由来は古く、神功皇后が三韓征伐のさい、新鮮な白身の魚を練り鉾につけて焼いたことからつけられたといわれ、もう一説には植物の蒲の穂に似たところからきているといわれています。

 蒲菊が店を開いたのは市内両替町。当時、駿河湾内にキス、アジ、飛び魚、グチ等かまぼこの原料となる魚が豊富にとれ、これを証明するように静岡、焼津に蒲鉾業者が多くあります。

 また夏にはシイラ、冬はカマスもあって良質の製品が生産されました。しかし蒲鉾はそのころ一般庶民の口にはほど遠い商品だったのです。
蒲菊で作られた蒲鉾のほとんどは市内の料理店をはじめ東京、横浜方面へと送られたのです。蒲鉾はもとは料理店の板前さんたちがつくっていたようで、大量生産はできず各地に専門店が開かれました。現在のように冷凍、冷蔵の設備がないため、冬場だけの仕事で、冬場にかせいだものを夏場にどう食いつないでいくかが蒲鉾屋さんにとって大変だったようです。

 蒲菊の初代山本菊蔵と二代目菊蔵が活躍した大正時代・昭和初期は全て手作り。白身の魚の身をすき、蒸し、する、全てが人の力によってなされていました。特にすりは直径六十六センチほどの石ウスに魚を入れ、長い三本のキネ(天井に穴をあけてキネを固定)を使ってすりあげるという製造方法をとっていました。まな板もがんじょうなものだったといいます。

 手作りであったことと、海がシケれば原料の魚が入らないため大量生産はできず、注文取りも天候をみきわめてやったといいます。
  魚の運搬も“親知らず”と恐れられていた大崩海岸の道路を天びん棒をかついだ威勢のよい魚屋さんがかけ足で往復していたのです。
  蒲鉾は貴重な物で、明治末期、蒲菊で製品化された大板が一枚一円(現在千百円)と、当時としてはよい値段。料理屋さん、弁護士やお医者さんなどが上得意だったようです。

 

初代菊蔵はアイデアマン

  蒲菊は大正初期、両替町から人通りの多い呉服町(現在地)に移転して店を拡充、生産シーズンには十人ほどの従業員が働いていました。初代菊蔵はアイデアマンだったようです。人力が最もいるすり器を機械化するため山本式擂攪(ライカク)器を考案。簡単にいうと昔、漢方薬局で使っていたやげん(薬研)の大型化だったようです。残念ながらそれから間もなく、東京で電気による石川式が出回って、山本式は姿を消すようになりました。

 蒲鉾をやっている間に、サメを主原料とした白はんぺん、イワシを主原料とする黒はんぺんの製造も手がけ、これは一般の人たちに受けて“静岡の特産”となっていきました。いまでは黒はんぺんは各地で作られていますが明治末期には新製品として注目され、黒はんぺんはいまでも静岡ならではの練製品として有名です。


さつま揚げの製造

  大正になってさつま揚げの製造をしています。さつま揚げについて、二代目の菊蔵は初代に蒲菊は蒲鉾製造販売であって揚げもの屋ではないと叱られたそうです。ところが反対を押し切ってやった結果思わぬ反響を呼びよく売れ、いまでも人気商品の一つです。


献上品を製造

  静岡市御幸町の御用邸には、明治、大正と昭和の初期に行幸があり、そのつど蒲菊の蒲鉾を献上するほどの信用ができたのです。献上品を製造するときは大変だったようです。
 斉戒沐浴して、しめ縄を張りめぐらした仕事場には、市役所、警察の係員が立ち会い、そのなかで“謹製”したのだそうです。

  蒲菊の二代目菊蔵の時、静岡大火と戦災にあいましたが、これを克服して戦後は目ざましく発展しています。蒲菊は現在三代目菊弥がのれんを受け継いでいますが、製造はすべて機械化され冷凍、冷蔵庫の進歩によって東京、大阪などの主要消費地をはじめ全国各地のお客様に発送されています。

  蒲菊は本店(呉服町)のほか伊勢丹、JR駅ビルパルシェにも出店、創業以来益々盛況を続けています。

 

 

 


昭和二年控帳より
旧宮内省御用品の献上履歴



(大正10年頃)

(昭和5年)
しめ縄を張り巡らせ、警察官立会いのもと献上品謹製



(昭和20年頃)

       

      
(昭和30年頃) 当時のレジスター                      
      

      


(昭和33年) 二代目・菊蔵近影

      
(昭和40年頃) 本店のようす
      

 

 




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